テレホン法話 一覧

【第1273】 「兜と天蓋」 2023(令和5)年5月1日~10日

住職が語る法話を聴くことができます



 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1273話です。

 「海渡り節句前から勝ち兜(かぶと)」4月26日の朝刊に載った川柳です。ご存じ大リーグエンゼルスベンチでの風景です。大谷選手がホームランを打つと、ベンチでは日本製の兜を持って祝福のお出迎え。大谷選手はそれを被って活躍をアピールするあの姿です。

 端午の節句に兜や五月人形を飾って、子どもの日をお祝いします。兜や鎧は武将が身につけるものですが、当然身を護るためです。それに倣って、子どもが厄や災いを逃れ、無病息災にて健やかに育つようにと願う象徴的な存在として、兜は用いられるのでしょう。野球で身を護るものに、兜ならぬヘルメットがあります。大谷選手の兜はホームランに対するお祝いムードを盛り上げる効果を狙ってのことです。

 さて、被ると言えば、お釈迦さまが屋外で説法をするときは、頭上を蓋う類のものを用いたそうです。暑さから身を護るためです。それに倣って、日本の寺院でも、「大傘」と言われる赤い傘を用いることがあります。その寺の住職に就任する時に行列を組みますが、新住職を祝い護るかのように、赤い大傘を差し掛けて歩きます。

 また同じ意味合いで、本堂の真ん中の大間の天井には、荘厳用の天蓋というものが下がっています。全体が金色で眩しいほどです。六角形・八角形など形は様々ですが、仏教のシンボルの花である蓮華模様が中心に彫られています。簾のように下がった瓔珞が、一層豪華さを演出します。天蓋の下は住職や導師を勤める方だけが座るところです。大傘や天蓋は尊い方を荘厳する仏具でもあるのです。

 実はこの天蓋が葬式の時も使われていると言ったら驚かれるでしょうか。ちょっと前まで野辺送りをしていた時は、紙で作った天蓋で棺を蓋いながら、お墓まで葬列を組みました。亡くなった人を暑さや雨・風から護るためです。そして天蓋には次のように書きます。「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観ず(いっさいういのほうは ゆめまぼろしとあわかげのごとし つゆのごとくまたはいなずまのごとし まさにかくのごとくのかんをなすべし)」すべてのことは夢幻の如くに消えたり過ぎたりしてしまうものだ。徒に過ごさず一日一日を大切にしなさいという、亡き人からのメッセージとも受け止められます。そして説法の道場である本堂にあっては、和尚たる者、きらびやかな天蓋の下でふんぞり返っている場合ではないぞ、無常の理をしっかり説いて、人々に仏法を伝えなさいというお釈迦さまからの戒めとも言えます。

 兜も天蓋もその人を荘厳するだけでなく、諭す一面もあります。「勝って兜の緒を締めよ」とも言います。大谷選手が兜を被るのは、1本のホームランに浮かれることなく、次の打席を見据えて気を引き締めているのかもしれません。もっとも相手投手は、そんな大谷選手に対して、兜を脱いでいることでしょう。

 それでは又、5月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1272話】 「迷子にならぬ仏」 2023(令和5)年4月21日~30日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1272話です。

 「1年2年は夢のうち まさかと笑って待てば 3年4年は洒落のうち 数えて待てば 5年かければ 人は貌(かお)だちも変わる」これは中島みゆきの「トーキョー迷子」という歌詞の一節です。出て行った男を待って、迷子になりかけている女の歌です。

 その背景は全く違いますが、この3年間のコロナ禍を連想させます。日本でコロナ騒ぎが起きたのは2020年1月のこと。コロナそのものの実態も分からず、半年せめて1年もすれば落ち着くだろうと高を括っていました。それがなんと1年2年と悪夢を見るような月日を過ごすとは。洒落にもならない3年も過ぎ、人の顔だちの変化以上のスピードで世の中は変わってきました。

 様々な制約があって、できない・やらない・縮小するということが当たり前になり、ちょっと危機感すら抱いていました。例えば年一回しかやらない行事を3年も休んでしまうと、伝えていくことが難しくなります。大本山總持寺では年1回4月に授戒会が行われます。全国から集まった授戒会を修行する戒弟さんが、仏の教えである戒法を授けていただき仏弟子となる式です。その証明書である血脈を式の最後に禅師様より直接いただきます。そのために一週間かけて朝から晩まで様々な修行を加えていきます。規模が大きすぎて、修行僧だけではこなしきれません。多くの和尚さんの手伝いも必要です。

 普段のお寺では行われない特別な法要が続きます。足腰が痛くなるほどのお拝の連続や、薄暗い本堂で懺悔のための「小罪無量」と書いた紙片を焼却したり、修行を成し遂げた戒弟さんが須弥壇に昇り、まさに仏として拝まれるというようなことがあります。コロナ禍のため、この3年間そのようなことを一切行ってきませんでした。現在の修行僧はほとんど授戒会というものを知らないわけです。

 今年やっと再開できました。私もお手伝いに行ってきました。3年間のブランクは大きく、右往左往する修行僧もいました。久しぶりに手伝う私たちも戸惑うことがありました。しかし、感染対策を施しながらも、同じ空間で授戒会を修行できる有難さをしみじみ感じました。懴悔をするときも血脈を授けていただくときも、戒弟さんは禅師様としっかり顔を合わせなければなりません。オンラインやリモートでは授戒にはなりません。

 そして禅師様はこう仰いました。「佐佐木信綱の歌に『山高きみ寺のうちにあるほどは 我もしばしの仏なりけり』というのがあります。本山というこの寺で、立派に修行を加えて、仏の弟子となった戒弟のみなさまを有難く拝ましていただきました。またそのお手伝いにお出でいただいた和尚様方のおかげで、授戒会の灯を消すことなく、次世代につなぐことができました。寺には仏が一番似合います」。迷いのない仏と成った戒弟さんは、コロナ禍の世の中でも、決して迷子にはならないことでしょう。

 それでは又、5月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1271話】 「慈明忌」 2023(令和5)年4月11日~20日

住職が語る法話を聴くことができます


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1271話です。

 先日親族が集まり、母静枝の17回忌法要を営みました。思い起こせば、平成19年2月22日母は体調を崩し入院となりました。しかし私はカンボジアに向かわなければなりませんでした。曹洞宗東北管区教化センター統監として、センターの30周年記念事業でカンボジアに移動図書館車を贈呈するためです。カンボジアに着いた夜、母の容態が急変したとの知らせ。翌日何とか贈呈式を済ませて、急ぎ帰国しました。入院前日まで普通の生活をしていたので、まさかという思いでした。しかし、意識は戻ることなく、入院13日目の3月6日の朝に79歳の生涯を閉じました。

 母は私のカンボジア支援や、教化センターの活動に対しても、理解を示し支えてくれていました。そこで葬儀後に親族とも相談し、母に賜った香典をカンボジアの子どもたちのために活用することにしました。長年寺を守り、多くの方に親しまれ、また誰にでも慈しみを注いできた母の香典返しにふさわしいと考えたからです。そして翌年12月に、シャンティ国際ボランティア会のお世話で、カンボジアのドップ・トノット村に小学校1棟を建設寄贈できました。学校名は母の名を冠した「ドップ・トノット・シズエ小学校」です。

 17回忌に当たり、カンボジアから現在の小学校の様子の報告が届きました。竣工以来15年間で約350人の子どもが巣立ち、今年度は188人が学んでいます。大学へ進学した子どもも2,3人いるということです。シズエ小学校ができるまでは、村に小学校はなく、子どもたちは川を泳いで森を越え、隣り村の学校に行っていました。村に小学校があるということは、子どもたちの未来がすぐそこに見えるということです。

 母は生涯において、子どもを育て、それぞれの孫を抱くことはできました。しかし、ひ孫に会うことは叶いませんでした。それがこの度の法要には、10人のひ孫が名を連ねたのです。17回忌という歳月はそういうことなのだと改めて感じました。シズエとは静かな枝と書きます。まさに静枝の縁を受けた子や孫、ひ孫の枝葉が繁茂して、たいへん賑やかな法要でした。

 また15年前シズエ小学校の贈呈式に訪れた際に、静枝の名前と戒名に因んで「静かなる枝に 佳き花の 香るらん」と書いた木製の記念碑を校庭に作っていただきました。この間まさに静枝という枝から、たくさんの子どもたちが巣立って行ったわけです。

 ひ孫もカンボジアの子どもたちにも巡り合うことはできなかった母ではありますが、その慈しみ溢れる縁は、確実につながり広がっていることを報告出来た17回忌でした。そういえば17回忌は慈明忌とも言います。慈しみを明らかにすると書きます。母の慈しみは色褪せることなく、年々深まっていくような気がします。

 ここでお知らせいたします。3月のカンボジアエコー募金は、802回×3円で2,406円でした。ありがとうございました。それでは又、4月21日よりお耳にかかりましょう。



ドップ・トノット・シズエ小学校

【第1270話】 「慈悲の二刀流」 2023(令和5)年4月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1270話です。

 「それは漫画だ」とは、ありもしないことを誇張して表現しているようなときに使います。それなのに漫画の世界を超えた現実を見せつけた人がいます。侍ジャパンの大谷翔平選手です。ワールド・ベースボール・クラシックでのアメリカとの決勝戦。1点リードの9回に抑えの投手として登場。しかもユニフォームは泥だらけです。普通途中から出場する投手のユニフォームはきれいなはずです。しかし、大谷選手はそれまで打者として試合に出ていたので、泥だらけだったのです。

 もはや打者と投手の二刀流は大谷選手の代名詞です。その勲章のような泥だらけのユニフォームで、アメリカの最後の打者でスーパースターと言われるトラウト選手に真っ向勝負で挑み、見事三振に打ち取り、日本を世界一に導きました。

 アメリカの打線は史上最強と称されていました。そして大谷選手は決勝戦が始まる円陣の前で言います。「今日だけは憧れるのはやめましょう。アメリカチームには、誰しも聞いたことがあるような選手たちがいるけど、憧れてしまったら越えられない」。憧れの選手と野球をやったというだけで満足してはいけない。その選手に勝たなければいけないということでしょう。

 大谷選手は優勝までの全7試合で安打を打ち、打率は4割3分5厘、8打点、1ホームラン、1盗塁。投手としては3試合に登板して防御率1.86、2勝1セーブ、11奪三振というとんでもない成績を残しました。当然最優秀選手に選ばれました。これからは世界中の野球選手が憧れることでしょう。

 さて、4月8日はお釈迦さまのお生まれになった日です。お釈迦さまも二刀流と称されるほどの存在感をもって生まれたたと伝えられています。釈迦族の王子として生まれ、シッダールタ(目的を達成する者)と名付けられました。父の浄飯王(じょうぼんおう)は、賢そうな王子を見て、将来を占ってもらおうと、国一番の占い師アシダ仙人に依頼します。すると「将来は全世界を支配する王となるか、無上の悟りを開かれる仏陀となられるでしょう」と告げられました。王と仏陀の二刀流は可能でしょうか。

 当然浄飯王は支配者になってもらおうと文武両道の英才教育を施します。王子は瞬く間に道を究めます。しかし、真に求めていたのはなぜ生きるか、幸せは何かということでした。29歳で出家し、35歳で悟りを開き、仏陀となられました。

 幼い時から生老病死に対する不安があり、それに打ち勝って迷いを超えることが悟りであるとの信念を貫いたのです。世界の支配者に憧れることはせず、お釈迦さまは慈悲という二刀流を駆使されました。慈悲の慈は喜びを与え、悲は苦しみを除くという意味があります。人の心に住む迷いや悩みという悪魔を退治して、しあわせになる二刀流です。私たちもお釈迦さまに憧れるだけではなく、慈悲という二刀流を錆び付かせないように、日々精進いたしましょう。

 それでは又、4月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1269話】 「博士の理想郷」 2023(令和5)年3月21日~31日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1269話です。

 その老人の肩には無数の傷跡がありました。「どうしたの」と家の者が聞くと、「自分で作った赤痢ワクチンを注射して、反応や経過を観察した、いわば自分を材料にした人体実験だ」というのです。その老人こそ、赤痢菌発見者として世界的に著名な志賀潔博士です。

 博士の生まれは仙台ですが、昭和20年に我が山元町磯浜に家族と共に移り住み、終の棲家として昭和32年まで過ごされました。磯浜との縁は、徳本寺開基の大條家のおかかえ医師田原家の紹介で、別荘地として勧められたからです。海が見える風光明媚さを気に入られたのでしょう。徳本寺にも「無可有之郷(むかうのきょう)」と認めてくださった色紙が残されています。中国の荘子の言葉で「自然のままで、何の作為もない理想郷」という意味があります。まさに磯浜はその通りだったのです。しかし、そこを東日本大震災の津波が襲いました。博士の住まいは辛うじて残ったものの、その後火災に遭い、当時の面影は残っていません。

 ただ、磯浜の近くに中浜小学校があり、現在は震災遺構となりましたが、そこに博士の石碑が残っています。「なにごとも まじめに しんぼう強く 元気よく やりとおせば きっとりっぱな仕事を なしとげることができます」と刻んであります。当時の児童は朝礼の時、大きな声で唱和していたといいます。

 さて、博士の人体実験ですが、「患部の腫れと高熱が続き大いに苦痛を覚えたのでこれを一般に使用することは断念せざるを得なかった。患部は同僚に切開してもらったが全治まで1年ほどかかり、創痕は後々まで残った」と自ら記しています。それでも赤痢菌をどうして発見されたかと尋ねられても「まぁ君、たいしたことではないんだよ。他人が20ペン顕微鏡をのぞくところを、百ペンのぞいたに過ぎないさ!」と仰っています。単純に人の5倍の精進があったのでしょう。

 彼岸という迷いのない理想の世界に渡るのが仏教徒の願いです。そうだとしても「衆生を先に度(わた)して自らは終(つい)に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり」と修証義というお経にあります。赤痢菌の発見に自分の命をも顧みず、世のために疫病撲滅を目指し、人々を安寧な世界に渡した博士の行いは、「まじめにしんぼう強くやりとおした」結果なのでしょう。そのような偉人がわが郷土を理想郷として過ごされたことは、私たちの誇りです。「先人の跡を師とせず、先人の心を師とすべし」博士の言葉です。博士の心を彼岸の心に重ね、大震災があっても理想郷と言えるように2倍も3倍も精進しましょう。

 ここでお知らせいたします。「赤痢菌発見者 志賀潔とささえた家族」という本が、山元いいっ茶組より発行されました。定価1430円です。Amazonでのネット購入、もしくは徳本寺まで。売上金は大條家の茶室再建に寄付されます。 ➡ 【詳細はコチラ】

 それでは又、4月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1268話】 「嵩上げ復興」 2023(令和5)年3月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1268話です。

 東日本大震災翌日の朝早く、避難所になっている坂元中学校に行きました。そこは少し高台になっていて、町の海側の方が見渡せる位置にあります。何と松林もなければ、民家も一軒も残らず、どす黒い大地と化していました。道路も判別できず、線路も流されるというありさまです。ただ、坂元駅の高架橋だけが、ぐにゃっとねじ曲がって、辛うじて残っていました。唯一あたりの目印となるものでした。

 わが山元町は東側約12キロがすべて海に面して、なだらかな海岸線が続きます。しかもほぼ平らな地形です。大津波がもろにそこを襲いました。津波最大波は12.2㍍で、町全体の40㌫が浸水したのです。人が住んでいる可住ベースでの浸水割合は60㌫にもなり、県内最大クラスです。犠牲者は町人口の4㌫にあたる637人に及びました。

 この12年間で、少なくとも浸水地域は見違えるようになりました。JR線は内陸へ移設して、高架レールを走るようになりました。そして元の線路のルートはそのまま嵩上げされて道路になりました。防潮堤の役目も担って、高いところは7㍍もあります。

 その嵩上げ道路を、先日亘理郡内の曹洞宗青年会僧侶と共に、慰霊行脚で歩きました。徳本寺の末寺で、本堂が流出した徳泉寺から震災慰霊塔である日本最代クラスの高さを誇る古代五輪塔の千年塔までの約5キロの区間です。確かに見晴らしはいいものでした。海が見え、集約された広大な農地が見渡せますが、家は一軒もありません。

 昔は電車の窓から民家も農地も松林も見えました。多くの人がそこかしこに住まいしていました。そこに住まいしていたがゆえに犠牲になった人がたくさんいます。現在は災害危険区域となり、住宅建築は許可されません。広い大地の整い過ぎた景色が、逆に辛すぎます。無念の思いで亡くなった人に、お経の声が届けとばかりひたすらに行脚しました。

 行脚を終えて気づいたら、草鞋の片方の藁がすり減って、穴が開いていました。まさに「破草鞋(はそうあい)」です。「草鞋(そうあい)」とは「わらじ」のことで、「破草鞋」とは「草鞋を破る」と書きます。草鞋をすり減らして、本物の教えを求めて諸国を行脚することを言います。果たしてこの度の「破草鞋」で、本物の復興に辿り着いたと言えるでしょうか。あれから12年、震災を知らない子どもが育っています。道路の嵩上げだけでなく、復興の嵩上げも必要な時期に来ています。震災前の故郷、震災当時のこと、そこからの復興の過程を、次世代に伝えること、それが嵩上げ復興です。未来の(わらし)の命を守るためにも、いま一度草鞋の紐を結び直しましょう。

 ここでお知らせいたします。2月のカンボジアエコー募金は、768回×3円で2,304円でした。ありがとうございました。

 それでは又、3月21日よりお耳にかかりましょう。



破れ草鞋

【第1267話】 「希望に勝る意志」 2023(令和5)年3月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1267話です。

 先日、東日本大震災に関して、地元テレビ局のアナウンサーから取材を受けました。終わってから逆取材をして、彼女に震災の時のことを聞いてみました。当時彼女は仙台市の中学3年生とのこと。震災の翌日に卒業式を控えていたのですが、当然行われませんでした。「私、中学を卒業していないんです」と言うのでした。

 あの時中学生だった子が、今や報道の第一線で活躍して、震災を伝えてくれるということに、感慨深いものがありました。あれから丸12年が経ちました。今の小学生のほとんどの子はまだ生まれていなかった頃の出来事なのです。これからは、そういう人たちが増え、震災を知る人が年々少なくなるということです。

 今年は震災で亡くなった方の13回忌ということで、供養が続いています。Tさんは家族4人が犠牲になりました。当時家には、奥さんと長女、そして嫁いでいた次女が出産をして、赤ちゃんを連れて里帰りをしていました。新しい命を囲みながら、和やかな時間を過ごしていたはずです。惨いことにその4人を大津波は襲ったのです。赤ちゃんの遺体はまだ見つかっていません。

 その4人のご法事に親戚の方も参列しました。位牌や写真を飾って準備をしているとき、親戚の男の子たちが寄ってきました。幼稚園くらいの男の子が言いました。「あっ、震災で亡くなった人だ」。そしたら、小学3年生くらいのお兄ちゃんが、こつんと男の子の頭を叩いて「こら、みんな家族なんだぞ」と諭すように言いました。弟はたくさん並んだ写真を常に見ていて、震災で亡くなった人だということを、教えられていたのでしょう。お兄ちゃんはお兄ちゃんで、「『震災で亡くなった』なんて簡単に言うなよ。みんな家族だったんだぞ。ぼくたちだって、その親戚だから家族と同じなんだよ」との思いがあったのかもしれません。

 この家族そして親戚の人たちは、大震災という出来事と尊い命がたくさん失われたという事実を、きちんと伝え続けてきているのでしょう。時間は様々なものを洗い流したり、新しいものを生み出したりします。意識的に伝えなければ、あっという間に忘れ去られます。その当時のことを知らなければ、忘れる以前の話です。まだ10歳にも満たないだろう男の子たちが、震災の話をできることに、驚きを隠せません。それより亡くなった親戚の人を、自分たちの家族なんだよと意識している健気さに、感動すら覚えます。

 Tさんばかりではなく、震災の被災者はどなたも絶望を味わいました。しかし、皆ここまで歩んできました。こんな言葉があります。「人が止まるのは絶望ではなく あきらめだ 人が進むのは 希望ではなく 意志である」。希望などと言うきれいな言葉だけでは進めません。あきらめない強い意志の持ち主が、亡き人を供養し、その姿で震災を次の世代に伝えています。

 それでは又、3月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1266話】 「新月と満月」 2023(令和5)年2月21日~28日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1266話です。

 「2月逃げていく」とはよく言ったものです。28日間という短い日数だからでしょう。しかし、月の満ち欠けは28日周期で、古代マヤ人は、28日周期の暦を採用していたそうです。月の満ち欠けを生活のサイクルとしていたのです。たとえば、新月の時に作物の種を植えるとか、満月には作物を刈り取るというようにです。

 新月は月の満ち欠けが始まる月のことです。地球からは見えません。月が新しく生まれるということで、新しいことを始めるには良いとされます。願い事を行うのも吉だそうです。新月から2日目は二日月で、3日目が三日月となります。

 15日目には満月となりますが、そこから月は少しずつ欠けていきます。新月から始めたことは、満月までに終わらせるのが良いそうです。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」藤原道長が約千年前の1018年旧暦の10月16日の宴の席で、詠んだ歌です。望月は満月のことで、藤原氏の栄華に酔うかのような内容ですが、月の満ち欠けを謙虚に受け入れることが、現実の生活では大切なことです。満月に慢心してはいけません。

 ちょっと前までは日本の農作業も、月の満ち欠けを意識したいわゆる旧暦に則った農事歴を参考にしていました。野菜や果物には、その季節に育まれたそれなりの栄養が蓄えられているのです。現代は栽培技術が向上して、見栄えやカロリー消費に重点を置くあまりに、季節を意識せずに、年中様々な作物を食しています。まさに望月の欠けたることのなき世を生きているかのようです。

 野菜栽培といえば、こんな興味深い話を聞きました。トマトやキュウリを丈夫に育てる秘訣です。苗を植えた直後に水をやったら、その後は数日間、水をやらないという方法です。これ以上水をやらなかったら終わってしまいそうなギリギリのところで、水やりをするのだそうです。水がないという窮地に陥ったトマトやキュウリは、水を求めて深いところまで根を張り巡らします。土に深く根付き、水分や栄養分を吸収する力が強くなります。その結果、背の高い茎の太いものに成長するといいます。

 新月の時は暗闇ですが、物事の始まりとか。水がないという逆境でも、生きようとすれば、根を張っていく野菜の生命力。そう言えば、私たちも東日本大震災の時、電気も消えた暗闇で復興の種を芽生えさせようとしました。大津波で何もかも流され中で、今できることやろうと根を張る如く、懸命に生きてきました。やがて来る満月に、文字通り望みを託そうと励まし合ってきました。こんな言葉があります。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根をのばせ。やがて大きな花が咲く」。来る3月11日には、復興という花を添えて、お互いの命を称え合いましょう。

 それでは又、3月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1265話】 「末期の水」 2023(令和5)年2月11日~20日

住職が語る法話を聴くことができます


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1265話です。

 臨終に際して、親族が最初にすることは、「死に水」を取ることでしょう。ガーゼや脱脂綿を巻き付けた割りばしに水を含ませ、亡き人の唇を軽く潤してあげます。「末期の水」ともいいますが、どうして「水をあげる」ではなく、「水を取る」になるのか不思議です。

 さて、末期の水の起源はお釈迦さまと言われます。お釈迦さまは、今から2500年ほど前の2月15日に、80歳でお亡くなりになられました。説法の旅の途中で、激しい腹痛に襲われ、クシナガラの沙羅双樹の林の中で、身を横たえられました。死期を悟ったお釈迦さまは、喉の渇きを訴えられました。そばにいた弟子の阿難に「吾渇せり水を飲まんと欲す、汝水を取りに来たれ」と命じました。しかし、川の上流では500の牛車が渡ったばかりで、水は濁っていて、足は洗えますが、とても飲めませんと告げます。それでも3度阿難に「汝水を取りに来たれ」と言います。3度目に阿難が川に行ってみると、不思議なことに濁流が清水となっているところが見つかりました。そしてその水をお釈迦さまに差し上げることができました。

 このように末期の水を実際に取りに行ったということです。そして、死んでからではなく、亡くなる前にです。まさに清らかな水を川に取りに行って、最期の旅立ちに苦しむことなく安らかにという願いを込めて、差し上げたものです。

 やがて別の観点から、死んでしまえば食べることも飲むことも叶わないのだから、せめてはなむけに喉を潤していただきたいと、口に含ませるようになったのかもしれません。そして「死に水を取る」とは、亡くなった人が水分補給をする意味で、「水を取る」という表現になったともいえます。更に「死に水を取る」ということには、関係者が最後まで全面的に面倒をみるという意味も含まれるようになりました。「お前の死に水は俺が取るから心配するな」などと言うことがあります。いわゆる「最期を看取る」につながるものでしょう。「水を取る」がまさに「看取る」となるわけです。

 ところでお釈迦さまは、末期の水を飲む前に、看取っていた弟子たちに、諄々と説法をなさいました。最後の最後にこう言います。「汝等(なんだち)(しばら)く止みね、復た語(もの)いうこと得ること勿れ。時将に過ぎなんと欲す、我滅度せんと欲す。是れ我が最後の教悔(きょうげ)する所なり」弟子たちよ、嘆き悲しむのをやめて静かに私の最期を見守りなさい。時は過ぎつつあり、私は何の憂いもなく静かに安らかな涅槃に入るのだから。これが私の最後の教えであるぞ。そして満足して、清らかな末期の水を取り、息も引き取りました。

 ここでお知らせいたします。1月のカンボジアエコー募金は、1,370回×3円で4,110円でした。ありがとうございました。

 それでは又、2月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1264話】 「遺言」 2023(令和5)年2月1日~10日

住職が語る法話を聴くことができます


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1264話です。

 インドに三かく長者というお話があります。恥かく・義理かく・欲かくの三かくに励んで、一代で富を築いたのです。やがて年老いた長者は、どんなにお金を貯めても、あの世には一文も持っていけないことを悟ります。そして息子に告げます。「わしが死んだら、お棺の両側に穴をあけて、空っぽの両手を出した姿をみんなに見せてくれ。死ぬときは何も持っていけないと言いたいのだ」。葬儀の時息子がその通りにすると、お棺から両手を出した長者を見た人々は、「やっぱり三かく長者だね。死んでもまだ、何か欲しいと手を出しているよ」

 三かく長者でなくても、誰でも死んでしまえば、すべての財産はこの世に置いていくしかありません。たいていは遺産相続をするでしょうが、相続人がいなければ、国庫に入り国の財産となります。本人が死亡し遺言もないとします。利害関係者の申し立てで、家庭裁判所が相続財産管理人を選任します。未払金などを清算し、相続人が本当にいないかを確認します。一緒に暮らしたり、身の回りの世話をしたりした「特別縁故者」がいれば、審判の上で分与されます。その他諸経費を差し引いて、残りは国庫に入ることになります。

 この相続人なき遺産が、2021年度は647億円で過去最高でした。10年前の2011年は332億円でしたので、倍近く増えています。その要因としては.単身高齢者の増加や未婚率の上昇が挙げられます。全くの「おひとり様」で相続人がいなくても、有効な遺言があれば希望する相手に、遺産を譲ることができます。判断能力がしっかりしているうちに、遺言書を作っておくのがよさそうです。

 さて、ある檀家さんの話です。73歳の男性は、町内でひとり暮らしでした。昨年11月に病院で亡くなりました。葬儀の依頼に来たのは、生前後見人の契約をしていた司法書士の方でした。生前と言っても契約したのは、亡くなった日の午前中でした。契約の数時間後に男性は目を落としたのです。後見人ひとりだけの参列でしたが、無事葬儀・納骨を済ませました。

 しかしその後、独り身と思っていた男性には離婚歴があり、子どもがひとりいることが判明しました。音信不通の状態でしたが、何とか手を尽くして探し当てることができました。男性はいくばくかの財産を残していました。葬儀その他の必要経費を除いて、相続権はその子どもにあり、きちんと譲渡できたということでした。年末にその子どもと後見人が訪れ、お墓にお参りをしていかれました。劇的な後見人契約を結んだ男性の生涯の潔さを見る思いでした。

 三かく長者でさえ、最期はきれいにまとめようとしました。しかし生前の印象があまりにも悪くて、丸く収まらなかったのは残念でした。「人は生きたように死んでいく」ジャーナリスト島﨑今日子の言葉です。良い遺言が残せますように・・・。

 それでは又、2月11日よりお耳にかかりましょう。