テレホン法話 一覧

【第1283話】 「目連の心」 2023(令和5)年8月11日~20日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1283話です。

 頭に血がのぼった状態を「頭に来る」と言います。逆立ちをしてみれば、頭に血がのぼっているというか、血が下がって頭に集まっていることを実感できます。それは決して楽な姿勢ではありません。

 逆さに吊るされた苦しみは、インドの古い言葉の「ウランバーナ」に当たります。お盆は正式には「盂蘭盆」といい、ウランバーナが起源だという説もあります。釈迦の十大弟子で神通第一と言われた目連は、亡くなった母を神通力で探したところ、餓鬼道に堕ちて、逆さ吊りの苦しみに遭っていました。その訳をお釈迦さまに尋ねると「お前の母は、我が子にはとてもいい母親だった。しかし、他人には強欲で意地悪だったからだよ」「救い出す方法はありませんか」「ひとつだけある。それは山に籠って厳しい修行を終えた修行僧が、7月15日に町に下りてくる。彼らに衣や食事を提供して、お経を挙げていただきなさい」。目連がその通り実行すると、母親は餓鬼道から抜け出し、逆さ吊りの苦しみから逃れることができました。

 以来、目連は母と同じように苦しみにあえぐ人々を救うべく、毎年7月15日に修行僧を招いて供養の席を設けました。これがお盆の始まりであり、和尚さんを呼んでご法事を営む風習にもなったといわれます。7月15日が本来のお盆で、地方では月遅れの8月に行われます。

 さて、この世にも逆さまな心で、頭に血がのぼった母親はいます。6月神戸市の草むらでスーツケースに入った6歳の男の子が遺体で発見されました。背中を踏みつけたり、鉄パイプで殴って殺害した疑いで、母親とその弟や妹の合わせて4人が逮捕されました。また7月には茨城県水戸市で、8歳の息子と5歳の娘を殺害した容疑で、母親が逮捕されました。更に大阪府大東市の母親は、9歳の娘に食事を与えず、低血糖症で入院させ、共済金をだまし取ったとして逮捕されました。

 犠牲になった子どもたちは、母親が頭に来るような悪いことをしたのでしょうか。すべては母親の身勝手と欲に溺れての悪業です。この世の母親の仕業とは思えません。子どもたちこそが、地獄のような苦しみを味わったのです。目連の母親の我が子への溺愛は、確かに逆さまな心です。しかし、身勝手な母親に言います。「せめて目連の母親並みに、我が子だけでもしっかり面倒を見なさい」と。

 逆立ちをして食べたり飲んだりはできません。そのように、強欲な餓鬼は喉が針のように細くなって、まともに食べられません。お盆には、キュウリとナスを賽の目に刻んで洗米と混ぜて水に浸した「水の子」というお供えをします。餓鬼が食べやすいようにという配慮です。お盆に帰ってくるご先祖の供養と併せて、苦しみにあえぐ人をも救いたいという目連の心の顕れです。お盆はお供えを整えながら、私たちも心が逆さまになっていないか省みる機会でもあります。

 ここでお知らせいたします。7月のカンボジアエコー募金は、1,303回×3円で3,909円でした。ありがとうございました。
 それでは又、8月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1282話】 「追善供養」 2023(令和5)年8月1日~10日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1282話です。

 昭和59年から平成19年にかけて、5千円札の肖像画になっていた世界的な農学者新渡戸稲造は、若い頃ドイツに留学していました。ある日店でコーヒーを飲んでいると、公園で40人の孤児たちが保母さんに連れられて遊んでいるのが見えました。ちょうどその日は母の命日でした。「そうだ母のへの追善供養に、子どもたちにミルクを飲んでもらおう」と思い立ちました。店のおばさんに頼んで、子どもたちにミルク一杯ずつをふるまうことができました。子どもたちは飲み終わると、歌を歌ってお礼をしてくれました。それを聞いて彼は親孝行をした気持ちになったといいます。

 追善供養とは、亡き人の霊が安らかであるようにと願って善行を施すことです。ご法事やお墓参りという供養事も立派な善行です。更に追善供養には、亡き人に代わって行う善いことも含まれます。亡き人が健在であればきっとそうしたはずだが、代わって自分が善いことをして、それは亡き人が行ったものとして、善を追加してあげるのが「追善供養」です。

 新渡戸稲造の母がこの場にいて、孤児たちを見たら、きっとミルクをご馳走したろうと思い、母の命日という巡り合わせも重なり、追善供養に及んだのです。

 さて、徳本寺の開基家大條家ゆかりの茶室は、町の文化財になっています。一説には豊臣秀吉から伊達政宗が賜った茶室とも伝わる貴重な歴史遺産です。伊達家に仕えた大條家が、ある手柄の褒美として拝領したものです。残念ながら、老朽化と東日本大震災の被害で、朽ち果てんばかりになっています。現在町では、修復のためにクラウドファンディングなどで、全国に支援を呼び掛けています。

 それのことで、京都の谷口さんという知人の方から、大枚の寄付が届けられました。そして寄付者名は自分ではなく、亡き両親の名前にしてくださいというのです。「両親は生前、住職様と良き縁を得たことをとても感謝しておりました。存命であればきっと今回の茶室修復に寄付をしたと思います。少しでもお役に立ててくだされば幸いです」。そんな有り難い言葉も添えてありました。まさに追善供養そのものです。

 大條家は元々伊達家の分かれです。大條17代道徳は、戊辰戦争の折に伊達家の窮地を救う働きが認められ、伊達姓に戻るように言われ、伊達宗亮と改名します。奇しくも今年が伊達宗亮の百回忌に当たります。この巡り会わせに、茶室の修復が叶うなら、またとない追善供養です。また、徳本寺でも開基家の恩に報いる報恩供養という意味も込めて、秋には法要を営みます。そして、伊達宗亮の4代後の子孫に伊達みきおなる人物がいます。今や天下統一を果たしたかのようなあのサンドウィッチマンです。彼もテレビ・ラジオで我が先祖ゆかりの茶室として、広く修復を訴えています。何十年後かに、5千円札の肖像画に伊達みきおが載ることを思い描いて、みなさまも茶室修復にご協力ください。

 それでは又、8月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1281話】 「仕方はある」 2023(令和5)年7月21日~31日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1281話です。

 学校は夏休みになりました。家族揃って温泉宿に泊まりに行くという楽しい計画もあるかもしれません。しかし、宿という字がついても、「宿題」となると、子どもたちにとっては、苦痛以外の何物でもありません。

 最初に宿題を片付けて、残りをのんびりするか、最初に楽しんでギリギリになって宿題と格闘するか、ふたつのタイプがあります。ほんとうの優等生は、毎日コツコツと励む子どもでしょうか。普通は今日できなくても明日がある、明日やればいい。そう思って、あっという間に3日が過ぎ1週間が過ぎてしまいます。そして長いと思っていた夏休みも終わり、早や秋の風が吹き始めるわけです。

 大人になっても夏休みの癖が抜けないで、人生を送っていることはないでしょうか。お釈迦さまの教えに「四馬(しめ)のたとえ」というのがあります。四馬とは4頭の馬のことで、無常の観じ方を馬の賢さにたとえたものです。1番の駿馬は、御者が振り上げた鞭の影を見て走り出す、つまり別の村人の死に接しても無常を思う、2番目は鞭が毛の先に触ってから走り出す、つまり同じ村人の死に接した時、無常を思う、3番目は肉に触ってから走り出す、つまり家族などの死に接して悲しむ時です、4番目は骨身に徹しないと走り出さないというのは、自分が病気になり死が迫って初めて無常を感じる者のたとえです。

 子どもの頃描いた夢や希望も、大人になるにつけ、自分の能力や置かれた状況を悟り、どうせこんな自分だから仕方がないと思ったことはありませんか。言い訳をして宿題を先延ばしにしているうちに夏休みが終わってしまうようなものです。無常に一番鈍感になっている状態です。無常に鈍感とは、言い訳人生です。まだ明日がある、今日は暑いから何もしたくないなど、できない理由はいくらでも並べられます。御者の鞭の存在すら見えていません。

 〈「仕方がない」と言い訳せず、「仕方はある」と工夫する〉これは2010年の甲子園で春夏連覇を果たして、沖縄県勢初の夏の甲子園優勝を成し遂げた興南高校の我喜屋優監督の言葉です。監督は「小さいことを見ようとしない人には、見落としがいっぱいある。小さいことに気づける人は、大きな仕事ができる」とも言っています。そして甲子園の宿舎の周りのごみ拾いをした話は有名です。仕方がないと思い込んだ時点で、どんな仕方も見えなくなります。先ずは今の自分も、置かれた状況も否定しないことです。そうすることで仕方が見えてくることがあります。鞭の影が常に見えると、今自分は何をしなければならないかが分かるようになります。私たちの人生には宿題というより、宿願があるのです。それは仏に成ることです。仏とは工夫に工夫を重ね、今この時を生き切っている人のことを言います。

 それでは又、8月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1280話】 「戻る」 2023(令和5)年7月11日~20日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1280話です。

 6月を過ぎたばかりですが、私の中ではもう、今年を表す漢字一文字が決まりました。それは「戻る」という字です。5月8日新型コロナウイルス感染症が、感染症法上の「5類」に引き下げられました。以来、世の中は普通の生活に戻りつつあります。取り分け、外国人を含め旅行客は、コロナ前に近い賑わいを取り戻しています。

 そんな中、長野県上田市の清水さんという女性から電話がありました。「私は徳泉寺復興のはがき一文字写経をした者です。徳泉寺の本堂が復興したというのを知り、すぐにでもお参りに行きたいと思っていました。しかし、コロナ禍のためできませんでした。今度こそはと思い、是非お伺いしたのです」

 徳本寺の末寺・徳泉寺は東日本大震災の大津波で本堂などすべてが流されました。しかし、全国の方のはがき一文字写経の功徳で、本堂を再建することができました。完成したのは日本でコロナ禍が始まったころの2020年1月のことでした。そして、3月11日には盛大に落慶法要を営み、みなさんにお披露目をしようと準備をしていた矢先のことです。学校が一斉休校になるほどの騒ぎの中、計画は縮小して実行するしかありませんでした。

 さて、清水さんは約束通り6月末に、義理の妹さんと一緒にお出でになりました。「歳も歳なので元気なうちにお参りしたいとずっと願っていました」と言って、流されても奇跡的に無事だった一心本尊さまに手を合わせてくださいました。また全国からのはがき一文字写経も、すべて木札に印字されて本堂内に奉納掲示されていますので、ご自分のも含めて一枚一枚確認されていました。

 因みに清水さんのはがき一文字写経は、「心」という文字でした。彼女は毎朝「一心頂礼 万徳円満・・」と始まるお釈迦さまを賛嘆する「舎利礼文」というお経をお唱えしてから、朝ご飯を始めるそうです。昨日今日の信心ではなく、長年培った仏を思う心が、写経に導いたり、一心本尊さまに是が非でも手を合わせたいという願いにつながったのです。

 コロナ前の賑わいに戻ったとしても、戻らないものがあります。それは年齢です。いつでも行ける会えると思っていたころは、1年2年は気にしないで過ごしていました。しかしコロナ禍の閉塞感は、何もできないまま歳だけは取って、取り返しがつかないと涙を流すほど悲しい思いをした人も多かったはずです。それでも清水さんのように、コロナ禍を超えて必ずお参りに行くのだという信念の持ち主は、ちゃんと3年前の年齢に戻ったような若々しさがありました。もう80歳になるというのですが、バックパックを背負い足取りも軽く、お元気そのものでした。清水さんはたとえ涙を流したとしても、清水という名前の如く、すぐに清らかな水のような心を取り戻せるのかもしれません。そう、涙という漢字は「さんずい」に「戻る」と書きますから。
 
 ここでお知らせいたします。6月のカンボジアエコー募金は、794回×3円で2,382円でした。ありがとうございました。それでは又、7月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1279話】 「僧侶無料」 2023(令和5)年7月1日~10日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1279話です。

 「送料無料」という表示が、通信販売の案内に頻繁に出てくるようになりました。送料が全く無料ということはあり得ないでしょう。実際に商品を運ぶ人の賃金やガソリン代などを考えればわかることです。どこかで誰かが負担しなければ、商品は届けられません。売る方で身銭を切ることもあるでしょうが、損してまで商売をする人はいません。商品価格にこっそり含まれているか、運送会社に無理をお願いしているのかもしれません。それでも買う方としては、「送料無料」の謳い文句に購買意欲がそそられます。

 折しも、運送業界では、「2024年問題」への対応に迫られています。トラック運転手の長時間労働が規制されるため、物流が滞るおそれがあるという問題です。全日本トラック協会では、送料無料表示は、消費者の運送コストに対する意識を希薄にさせるので、なくすよう求めています。「苦労して再配達までしているのに、送料無料といわれるとやり切れない気持ちになる」というのが現場の切実な声です。

 送料無料の話で、昔老僧に教えられた「布施なき経は読むべからず」という言葉を思い出しました。お布施をいただかかないお経は、読んではいけないということです。何と非情な和尚さんだろうと思うかもしれません。送料は運送の対価としていただきますが、お経は商品でも労働でもなく、その対価としてお布施をいただくものではありません。だからお布施に定価表はありません。

 布施には、財施と法施があります。財施は一般の人が僧侶に対して金品や食べ物という施物を施すこと。それは執着を捨てることでもあり、仏道修行の第一歩です。財施をしたくても相手がいなければできません。その相手が僧侶で、執着を捨てた境地で一般の人に仏の教えを説くことが法施です。そして「財法二施 功徳無量」といわれます。今できる精一杯の気持ちの布施と、邪念を捨てひたすらに読むお経は、どちらも無量の功徳があるというのです。更に三輪清浄といって、布施する人もされる人も、間に入る施物も、三つの関係が清らかでなければなりません。布施をする人はできるだけ少ない方がとか、受ける方は少しでも多くいただきたいという拘りを捨てることです。極端な話、いくら高額な布施をしても、盗んだお金だとしたら論外です。

 送料無料と布施なき経の話を同じレベルで論じることはできません。しかし商品販売を考えるとき、商品という存在、作る人・運ぶ人・売る人という存在、消費者という3つの存在が、適正に評価され、誰もが納得できる関係性であるべきでしょう。それは布施の三輪清浄にも通じるものです。我々僧侶も「布施なき経は読むべからず」といわれるように、決して「僧侶無料」にはならないのですから。

 それでは又、7月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1278話】 「鬼籍に入るからには」 2023(令和5)年6月21日~30日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1278話です。

 「鬼」という漢字は、大きな丸い頭をして、足元が定かでない亡霊を描いた象形文字です。なるほど「魂」という漢字の作りにも鬼という字が入っています。鬼と戸籍簿の籍と書いて、鬼籍とは過去帳のことです。亡くなることを「鬼籍に入(い)る」とも言います。

 今年半年で百歳を超えて鬼籍に入った檀家さんは、5人もいます。少子高齢化の町ではありますが、長寿が際立っています。「鬼才」という言葉が示すように、鬼という字には「人並外れて優れた」という意味もあります。鬼籍は百年以上も生きた方が入るにふさわしいともいえるでしょうか。まさに奇跡のような人生ですから。

 さて、今年の鬼籍をめくると、90歳を超えた方が6割を占めます。そんな中でひとり40代の方がいます。その男性は自ら命を絶ったのでした。家族は妻と学校に通う子ども3人です。新しく建てた家に住まいして、はた目には何自由ないように見えます。しかし、家族も気づかない職場での悩みを抱えていたようです。その前日、実家に帰ってきて、男性の両親も交えて家族揃って食卓を囲んだのです。しかし、翌日、車で出かけたまま、戻ることなく、懸命の捜索の結果、車の中で遺体となって発見されました。

 残された家族にとっては信じたくもない現実です。小さい子どもは、ただ泣きじゃくるばかりでした。「死にたい」と思うと、あたりが見えなくなり、自分だけの世界に入り込んでしまうのかもしれません。どうせ自分の気持ちなど誰にも分ってもらえない。それなら、死ぬことによって事の重大さを周りに知らしめようとしたのでしょうか。自分の命というものを勘違いしないでください。自分で命は作れません。縁あり授かって預かっている命です。自分勝手に扱っていいわけはありません。何よりも大切にしなければなりません。

 我が国の自殺者数の推移を見ると、2003年の3万5千人をピークに減少傾向にありました。しかしコロナ禍以降3年で、3割増加しています。2022年は2万1881人でした。特に児童・生徒は514人で、過去最多になりました。

 大人であれ、子どもであれ、悩み苦しみのない人はいません。ひとりで抱え込まないことです。誰かに話してみましょう。ちょっと立ち止まって想像してみて下さい。自殺者の遺族は、生涯にわたって悲しみと苦しみを背負っていかなければならないのです。人を悲しませるために生きているのではありません。人に喜んでもらえて、この世に生を受けた意義を見出せます。

 「人生は生きるに値する ここにいる僕でも そう思う」これはある死刑囚の言葉です。私たちは生きなければならないのです。仕事の鬼ならぬ、人生の鬼となって、精一杯生き切って初めて鬼籍に名を連ねることができます。

 それでは又、7月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1277話】 「最年少名人」 2023(令和5)年6月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1277話です。

 「最年少」という言葉は、いまや藤井聡太の枕詞です。小学校6年の時に詰将棋解答選手権で優勝して、最年少の歴史は始まりました。14歳2カ月でプロ入り、15歳6カ月で一般棋戦優勝、17歳11カ月で初タイトルを獲得、すべて史上最年少です。更に二冠から六冠までのタイトル獲得が、すべて最年少記録です。そして、20歳7カ月で名人獲得で七冠となり、最年少で将棋の頂点を極めました。

 その快進撃の根底にあるのは、「強くなりたい」という一貫した純粋な思いだといわれます。4歳の時に将棋と出会い、夢中になったそうです。近所の高齢者施設で将棋の相手をしてもらい、「毎日将棋が指せるから、早くおじいちゃんになりたい」と言ったとか。そのほほえましい願いが、名人の位にまで届くのですから、まさに「三つ子の魂百まで」です。

 将棋盤は9×9で81のマスがあります。ひとつの局面で約80通りの可能性があるそうです。次の一手を選ぶために、数時間も考え抜くことがあります。そんな将棋に人口知能いわゆるAIが入り込んでいます。藤井名人も中学生の頃から、AIを取り入れて研究し、力をつけてきました。そして、元号が改元するときに、「令和に起こる将棋界のビックニュースは何でしょうか」と尋ねられて、「人間と一度も対局せずに棋士になる方が出てくるのではないかと思います」と答えています。

 ハッとさせられる言葉です。AIの進化はまるで宇宙人でも見るかのようです。コロナ禍が対面の機会を奪い、リモートとか仮想世界という現実にはまってしまうと、人という存在を意識しないことが当たり前になってしまう恐ろしさがあります。チャップリンの映画『モダン・タイムス』を思い起こしてしまいます。機械文明を風刺した映画で、個人の尊厳が失われ、機械の一部分になってしまうという喜劇でした。

 しかし、AIの上を行くのが藤井名人です。AIを超える最善手をいくつも繰り出して、タイトルを獲得し、保持してきました。それは言葉を覚えるように、将棋を覚えて来たからではないかと言語脳科学者は評しています。子どもが言葉を覚え始めると、文法など知らなくても、どんどん単語を入れ替えて、文章を組み立てることができます。それと同じように、将棋の駒を入れ替えて、新たな手筋を考えることができるのだろうというのです。私たちが感覚的に言葉を発するように、藤井名人は自在に将棋を指せるのでしょう。その上でAIの力を研究すれば、鬼に金棒です。

 それでも数ある藤井名人のエピソードの中でほっとするのは、おばちゃんから将棋セットを贈られたことが、将棋との出会いだったという話です。AIの前におばちゃんという存在があったのです。どんな局面になっても、おばあちゃんを思い浮かべれば、AI以上の力を発揮できそうです。おばちゃんのAIのAは「あせらず あわてず 頭を使え」のAで、Iは「意外な 一手に 行きつくぞ」のIかもしれません。
 
 ここでお知らせいたします。5月のカンボジアエコー募金は、507回×3円で1,521円でした。ありがとうございました。それでは又、6月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1276話】 「親孝行と墓参り」 2023(令和5)年6月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1276話です。

 「親孝行したい時に 親はなし さりとて墓に 布団もかけられず」まさにその通りです。親が死んで初めて、自分の至らなさに気づくことは多々あります。生きている時にこそ、布団をかけてあげる気遣いが必要と自戒を込めて言います。

 ところで、お墓に屋根をかけているところがあります。鹿児島を訪れた時に出会いました。鹿児島といえば桜島です。現在も年間数百回の噴火がある活火山です。鹿児島市からフェリーで15分。小学校が2校と中学校が1校あり、4千人が暮らしています。そこにお墓もあります。墓石そのものは普通の形ですが、それぞれのお墓に屋根が付いているのです。というより、小さなお堂の中に、墓石が建っている感じです。瓦屋根の本格的なものから、鉄骨と波板トタンで覆ったものなど様々です。当然火山灰から墓石を守るためです。火山灰は雪のように降るときもあると言います。雪なら溶けますが、火山灰はそうはいきません。

 屋根付きのお墓があるのは桜島だけではありませんでした。県の内陸の方にも見られました。そこは地区の墓地として整備されたところです。何十軒もの同じような大きさのお墓が、整然と並んでいます。そこの墓地全体がひとつの屋根で覆われているのです。火山灰からお墓を守るというよりは、雨風も含めた自然現象からお墓を守るという感じでした。室内にお墓があるようなものですから、どんな天候でも心置きなくお参りができます。事実、たいていのお墓には、きれいな花が供えられていました。聞くところによると、鹿児島県はお盆やお彼岸でもないのに、いつもお墓に花が手向けられているといいます。そして「日本一墓参りを欠かさない県」 なのだそうです。それを裏付けるように、生花店の数も日本一とか。

 さて、昨今「墓じまい」が話題になります。住まいの都合により墓地を移転したいとか、後継者がいないので、現在のお墓を処分して、自分たちは永代供養の墓にお世話になりたいなど、やむを得ないこともあります。中には、ちゃんと子どもがいるにも拘らず、その子どもに迷惑をかけたくないからと、変な忖度をする方がいます。子どもがお墓参りに来たり、お墓を管理するのはたいへんだろうから、自分たちの代でお墓をなくし、後は子どもの好きなようにしてもらいたいからというのです。

 親が親孝行の機会を奪ってどうするのでしょう。生前十分な親孝行ができなかったと思えば、お墓参りをすることが何よりの親孝行になります。ですから、お墓に布団や屋根をかけるほどでなくても、命日やお盆・お彼岸は勿論のこと、自分の誕生日にもお墓参りをしましょう。「今日この日に、私をこの世に産んでくれてありがとう」と、感謝を込めて花をお供えしてはいかがですか。

 それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。



屋根付き墓所(桜島)

【第1275】 「イエスかハイ」 2023(令和5)年5月21日~31日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1275話です。

 映画の字幕は、1行最大13文字で、2行までと決められているそうです。誰もがストレスなく読み取れる情報量とか。アメリカ映画にこんなセリフがありました。「Hard To Say Yes」、直訳では、「ハイ、と言うことが困難だ」となります。日常会話としては不自然です。字幕では「すなおじゃないね」、なんと素晴らしい翻訳でしょう。素直に感動しました。

 さて小学校に入学した子どもさんたちは、毎朝、先生から名前を呼ばれて、「ハイ!」と元気に返事をしているでしょうか。上級生になるにつけ、この返事に変化が顕れます。段々面倒くさそうに、しょうがなく返事をするようになります。返事をするだけいい方かもしれません。

 これは家庭でも当てはまります。子どもが小さい時、「お母さん!(或いはお父さん)」と呼ばれて、親は誰しも「ハイ、なあに」と返事をして、子どものいる方を向いたはずです。それが、子どもが大きくなって、「お母さん」と呼んでも、「何よ」といかにも邪魔そうに反応することがあります。それどころか「今忙しいから、後にして」などと拒否することもあります。親子が向き合わなくなる初期症状です。

 私たち修行道場では、返事が命です。兎に角、大きい声で「ハイ」と返事をしなければなりません。極端なことを言うと、古参和尚が白いものを「これは黒だ」と言ったとしても、「ハイ」と言わなければなりません。否定する選択肢はないのです。しかも単に「ハイ」と言うだけでなく、大きな声を出すところが味噌です。そうすることによって、雑念がなくなる気がします。一般社会では通用しない、全く理不尽なことではありますが・・・。

 私たちは坂で転ぶと坂のせい、砂利道で転ぶと石のせいにして、自分のせいにはしません。しかし、すべてを肯定することにより、見えてくる世界があります。頼まれて修行しているわけではなく、自ら仏道を求めているのです。人のせいにしたり、できない理由を探しているかぎり、一歩も進めません。転んだことを認めるとは、自分という「我」をなくすことです。その上で、どうすれば転ばないかと工夫する段階に進めます。それを修行といいます。

 誰しも子どもの頃、「ハイ」と素直に返事ができます。大人になるにつけ、ハイということが困難になってきます。素直じゃなくなってくるわけです。要するに「俺が俺が」という「我」の塊になってしまうのです。素直さこそが人間を大きくします。こんな言葉に出会いました。「返事は イエスかハイ」。花農家の宮川洋蘭代表の宮川将人さんの座右の銘です。彼には嫌だとかできないという選択肢はなく、花を咲かせることに命を懸けています。そして楽天市場(いちば)年間グランプリにも輝いたのです。

 それでは又、6月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1274】 「お下がり」 2023(令和5)年5月11日~20日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1274話です。

 ランドセルはオランダ語で軍隊が背負うカバンの「ランセル」が語源ですが、日本では小学生の専売特許です。今年小学校を卒業した大阪市の森下紡(つむぎ)さんのこんな新聞投書がありました。「赤い色のランドセルは、6年前、七つ上の姉から譲りうけたものです。姉はとてもランドセルを大切に使いました。誰よりもきれいに使いました。それを捨てるのはもったいないと思い、私に譲ろうと思ったそうです。/姉はそのランドセルに対してすごく熱い思いがあったので、譲り受けた時は姉と『きれいに6年間使う』と約束しました。/この春、その6年間が終わりました。ランドセルは壊れることなく、私も誰よりも大切に使いました」

 更に森下さんは、「姉とランドセルに対してありがとうと伝えたいです。姉のおかげで物を大切にすることができるようになったと思います。私はこれからも物を大切にできる人になりたいですし、一生今の達成感は忘れません。お姉ちゃん、ありがとう」と結んでいます。

 6年間姉が使って、更に6年間妹が使ったランドセルは、世界一幸せなランドセルだったかもしれません。森下さん姉妹は、6年間毎日ランドセルを背負って運んだのは、教科書や文房具ばかりではなく、物を大切にする心と、姉妹愛とでもいうものだったのではないでしょうか。

 教科書と言えば、私にも一つ上の姉がいて、小学校ではそのお下がりの教科書を使っていました。当時の教科書は有料だったので、内容が変わらなければ、お下がりで間に合せようと親は思ったのでしょう。父は姉の教科書に紙でカバーをかけて、筆で教科名と名前を書いてくれるのでした。姉も教科書に線を引いたり落書きをすることなく、きれいに使っていました。私が譲り受けた時は、紙のカバーを外して使うのですが、ほぼ新品同様でした。姉もきれいに使っていたので、自分もそうするものだと思っていました。だから教科書は勿論、書物に落書きをすることは今もありません。「お下がり」それは単に物を引き継ぐというだけでなく、前の使用者の心を受け継ぐことでもあるのです。

 さて仏さまの供物を下げたものもお下がりと言います。お墓参りの時、その場で供物を下げていただきます。それは食べるという行為以上に、先祖さまからのお下がりをいただく、つまり先祖さまの心を受け継ぐと約束したことでもあるわけです。お下がりをいただいた限りは、大人になってランドセルを背負わずとも、その約束をキャンセルしないように心がけましょう。

 ここでお知らせいたします。4月のカンボジアエコー募金は、560回×3円で1,680円でした。ありがとうございました。
 それでは又、5月21日よりお耳にかかりましょう。