テレホン法話 一覧

【第1342話】 「無憂樹」 2025(令和7)年4月1日~10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1342話です。

 お釈迦さまが生まれたところにあった木は、無憂樹。悟りを開いた所にあった木は、菩提樹。亡くなった所にあった木は、沙羅双樹。これを三大聖樹と言います。無憂樹はインドでは、字の如く憂いの無い木ということで、乙女の恋心を叶えるなど、幸福の木とされます。

 さて、4月8日はお釈迦さまがお生まれになった降誕会です。父は釈迦族の王でスッドーダナ、母は釈迦族の隣のコーリア国の王女で、マーヤー妃。結婚してしばらく子宝に恵まれず、30歳過ぎてからの受胎でした。臨月が近づき、出産のため生家へ帰ることになります。途中ルンビニ―という花園で、美しい花をつけている無憂樹の下で小休止されました。あまりの花の美しさにマーヤー妃が、枝に手を添えた時に、急に産気づき、お釈迦さまを出産されました。

 この時、お釈迦さまの誕生をお祝いして、空から龍王が甘い香りの雨を降らせ、お釈迦さまを産湯につかわせ洗い清めたと伝わります。降誕会で花御堂の誕生仏に甘茶を灌ぐのは、この時の因縁によるものです。そして無憂樹も幸福の木として、お釈迦さまの誕生にふさわしいものでした。

 しかし、母マーヤー妃は出産一週間後に亡くなってしまいます。ルンビニ―という花園での出産は、ドラマチックではありますが、出産に適した環境とは言えないでしょう。当時としては高齢出産という無理が祟ったとしても不思議はありません。ともかく、お釈迦さまは母の姿を知らず、その後、養母となったマーヤー妃の妹マハーパジャパティに育てられます。無憂樹の木に祝福されながらも、決して憂い無き人生の始まりではなかったのです。

 「私がこの世に命をいただいたが故に、母は若くして命を終えたのではなかろうか」と、苦悩することになります。そして生老病死という人間の根源的な悩み苦しみからの解脱を目指し、29歳の時出家します。6年間の修行の後、35歳で菩提樹の下で悟りを開かれ、仏陀となられました。母の死があったればこその悟りと言っても過言ではありません。

 そして人々の憂いを除き、幸せを願い説法の旅を続けられました。80歳の時、沙羅双樹の林の中で、涅槃に入られました。お釈迦さま最期の涅槃の図には、雲にのった母の姿が描かれています。母はお釈迦さまを産んだ功徳により、忉利天(とうりてん)という天上界に生まれ変わっていました。臨終の知らせを受けて、お釈迦さまの下に降りられるところなのです。無憂樹の下で生まれても、母の死という憂いは生涯消えることはなかったことでしょう。生きてま見えることはなかった母をどれほど慕っていたか分かりません。母からいただき、仏陀として生きた80年の命を、今こそ何ら憂いも無く母にお返しするという思いが、涅槃図の母の姿に込められているような気がします。

 それでは又、4月11日よりお耳にかかりましょう。    

【第1341話】 「復興というコマーシャル」 2025(令和7)年3月21日~31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1341話です。

 今年1月フジテレビは不祥事により、番組のスポンサーに続々撤退されました。そのようなテレビで企業や商品を売り込むのは、イメージダウンになるという判断からです。空いた枠はACジャパン公共広告機構のコマーシャルで穴埋めをしました。

 ACジャパンといえば、東日本大震災の時を思い出します。あの時も、普通のコマーシャルがなくなり、ACジャパン一色になっていました。たくさんの人が亡くなり、家屋や家財道具など、ありとあらゆるものが流されたり破壊されたりして、瓦礫と呼ばれたのです。地獄のような光景が広がっていました。避難所では一本の割りばしを折って使い、ギリギリの食事をしなければならないのです。そんな惨い現実に向かって、生命保険や電化製品・自動車、住宅や食品などの華やかなコマーシャルを流したら、逆宣伝もいいところでしょう。そのような配慮で、一般のコマーシャルは自粛したわけです。

 大震災1週間で1万3千本以上のACジャパンのコマーシャルが流れたそうです。もっとも、大震災から1週間以上は停電状態でしたので、私はテレビもラジオも視聴することはできませんでした。その後もしばらくニュース以外の番組はなかったような気がします。お笑いや歌舞音曲の番組も控えていました。

 ある人が言いました。「普通のことが普通でなくなり、普通でないことが普通になった」。まさにその通りです。時にはしつこい、やかましいと思うことのあるコマーシャルが消えるなど普通ではありません。私が毎日遺体安置所や火葬場に通って供養のお勤めをしたことも異常ですが、その時カーラジオから流れて来るニュースは、死んだ、壊れた、流されたという情報ばかりでした。間にACジャパンのコマーシャルが入るのでした。それが普通の日常と化していたのです。

 大震災から14年が経ち、今はテレビ・ラジオから普通に、賑やかなコマーシャルが流れ、笑いも歌も溢れています。普通のことが普通になりました。当たり前の日常が戻ったのです。あの時のACジャパンのコマーシャルが懐かしいと思えるほどになりました。「あゝ 懐かしいと思ったとき 復興ができている」シンガーソングライター松任谷由実さんの言葉です。

 「懐かしい」という漢字は「ふところ」とも読みます。「目から垂れる涙を衣のふところで囲んで隠すさま」を表す会意文字です。あの時の涙を忘れず、それぞれの懐に大事にしまい込みましょう。つまり、あの困難を何とか乗り越えられたことを、これからの人生の肥やしとすることです。更にこれまで被災地を支えてくださった多くの方の、懐の深さのおかげに感謝することでもあります。その時、復興という名のコマーシャルがそれぞれの心に響き、被災地のイメージアップになることでしょう。

 それでは又、4月1日よりお耳にかかりましょう。 

【第1340話】 「彼岸の人」 2025(令和7)年3月11日~20日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1340話です。

 八木澤克昌さんは、誕生日を2日後に控えた1月7日、66歳で急逝しました。私も顧問を務める公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)で、タイ・ラオス・カンボジア・ミャンマーの事務所長を歴任した方です。アジアにおけるNGOの先達として、困難な人々のために生涯を捧げたのです。その功績により、外務大臣賞・読売国際賞やカンボジア国王勲章を受章しています。

 1980年SVAの前身である「曹洞宗東南アジア難民救済会議」に入職し、タイ・バンコク事務所に赴任しました。カンボジアから戦争を逃れてタイで難民キャンプ生活をしているカンボジアの子どもたちに、絵本を届けることが活動の始まりでした。リュックに何十冊もの絵本を詰めて、30キロの道のりをヒッチハイクで届けたと言います。現在のSVAの移動図書館活動の原点です。大学時代にお兄さんを亡くし、お父さんから「人は自分のためにだけ生きていてはいけない。人のために生きなさい」と言われたたことも、大きな転機となったようです。

 さて、私が曹洞宗東北管区教化センターの責任者だった時、センター設立30周年記念事業として、カンボジアに移動図書館車を贈ることになりました。現地での贈呈式のため、一行12名でカンボジアを訪れました。しかし肝心の車がないのです。カンボジアで日本車を輸入するためには、アラブのドバイを経由しなければならないとか。その船が遅れて贈呈式に間に合わないというのです。

 ここからが当時カンボジア事務所長八木澤さんの本領発揮です。たまたま日本の大使館が、同じ型の車を最近購入したことを知り、彼の顔で一時借用することができました。車の側面には贈り主の名前を書いた仮のステッカーを張り、贈呈式に間に合わせてくれました。タン・クロサウ村小学校でのお披露目式には千人もの人々が集まり、熱烈歓迎の段取りまで整っていました。彼のこの離れ業は、日頃如何に地元に根差して活動しているかを物語っています。今だから言える18年前の出来事です。

 彼ほど現場主義に徹した人を知りません。タイの女性と結婚しタイに暮らしていました。と言ってもクロントイスラムという貧民街にです。「スラムに暮らせば、スラムの問題を自分の問題として関われる」と言うのです。「いつまでスラムに住むの」と高校生になった娘さんに泣かれたこともあったそうですが、信念を貫きました。スラムの人々と泥水に入って柱を建て、困難や苦しみを我がこととして、支援に心血を注いだのです。

 「身は泥中に在りと雖も 心は天上の月に似たり」という言葉があります。八木澤さん、あなたこそ人々の困難や苦しみという闇を照らす月のようです。「己れ未だ度(わた)らざる前に一切衆生を度さん」という彼岸の教えそのものです。今頃は彼岸に渡り、また移動図書館を始めているのでしょうか。少しヒッチハイクが早すぎましたけどね。
  
 ここでお知らせいたします。2月のカンボジアエコー募金は、1,029回×3円で3,087円でした。ありがとうございました。それでは又、3月21日よりお耳にかかりましょう。 

【第1339話】 「旦過寮」 2025(令和7)年3月1日~10日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1339話です。

 正月元旦の「旦」という字は「あした」とも読み、日の出の頃をいいます。禅宗の道場には旦(あした)に過ぎると書く「旦過寮(たんがりょう)」という寮があります。夕べに来て早朝に去る、つまり行脚僧が寺に一夜泊まるところです。転じて、修行僧が正式に入堂する前に何日か滞在するところも指します。

 旦過寮は寺に入ることは許されたものの、まだ本格的な修行に入る前のお試し期間のようなものです。同期の修行僧何人かと寝起きを共にしますが、私語を交わすことはできません。朝の勤行と食事・掃除以外は、一日中坐禅をし続けるだけです。世の中との接点は一切断たれて浦島太郎状態です。

 東日本大震災が起きた時、T和尚さんは、福井県の大本山永平寺に入ったばかりで、まさに旦過寮詰めでした。彼の師匠さんのお寺は宮城県の沿岸部に位置し、甚大な被害があったところです。できたばかりの庫裡は津波が2階まで達し、本堂には流木が突き刺さり半壊状態です。しかし、旦過寮の彼は、そんなことを知る由もありません。

 ある時、先輩の和尚さんがこっそり大震災が起きたことを教えてくれました。しかも自分が修行を終えて帰るべき寺が、とんでもないことになっているというのです。もはや旦過寮どころではありません。犠牲者もたくさん出ているとか。自分の家族は大丈夫だろうか。先輩が隠して持ってきてくれた新聞を便所に持ち込み、犠牲者に家族の名前がないかを夢中で探しました。

 旦過寮を終えて少し落ち着いた頃、先輩和尚さんが師匠さんに連絡を取ってくれました。「家族は全員無事だが、寺も含め町全体がとんでもないことになっている。心配だろうが帰ってきてもどうにもならない。寝泊まりするところもないのだから。修行に専念しなさい」という師匠からの言葉を伝えられました。

 旦過寮はそれまでの生活から一変した極限の試練の場です。おまけにTさんは、断片的に耳に入る被災状況にも、想像が追いつかず、不安と心配が渦巻いていました。寺に帰らず自分だけが修行していていいのだろうかと、悶々とする日々を過ごしたそうです。それでも師匠の言葉と同期の修行仲間にも励まされて、今自分は修行に向き合うことしかないと腹をくくって、無事全うすることができました。そしてTさんが寺に戻ってからは、復興が加速しました。師匠さんの住職就任披露とTさんが一人前の和尚になる法戦式という大法要が大震災2年後に営まれたのです。

 当時の修行仲間も全国に散って、それぞれ僧侶としての道を歩んでいます。そして彼らは3月11日にはTさんの寺に毎年集まり、今も大震災犠牲者の追悼法要を行っています。Tさんの寺は彼らにとって、大震災に向き合うという第二の修行としての旦過寮なのかもしれません。  

 それでは又、3月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1338話】 「本来の家族葬」 2025(令和7)年2月21日~28日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1338話です。

 「家族とは『ある』ものではなく、手をかけて『育む』ものです」8年前105歳で亡くなった聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんの言葉です。家族なんて日常生活では、当たり前に「ある」ものだと思ってしまいます。家族の一員を亡くした時、つまり「ある」ものがなくなったとき、どのように対応できるかで、その家族の日常生活が垣間見られることがあります。

 先日お檀家の98歳の女性がなくなりました。17年前長いこと自宅で献身的に介護した旦那さんに先立たれました。ご自分も晩年は介護される身となりましたが、やはり自宅に於いて、家族の方の親身なお世話があり、天寿を全うされました。葬儀には子どもや孫さんは勿論のこと、親類縁者がたくさん集い最後のお別れをしました。しめやかな中にも故人の人柄が偲ばれるとてもいい時間が流れました。

 孫さん4人がおばあちゃんに向かってお別れの言葉を述べました。ある孫さんは、子どもの頃とても心配をかけた時があったけど、おばちゃんはすべてを受け入れてくれて助けてもらったと涙ながらに感謝を伝えていました。別の孫さんは、いつもおばちゃんに言われた「兄弟は仲良く、喧嘩はするな」という言葉を紹介し、「今もちゃんと守っているから」と心強く呼び掛けていました。

 中でもほほえましかったのは、おばあちゃんに保育所の送り迎えをしてもらっていた孫さんの言葉です。「僕の両親は働いていたので、保育所に行くときは、おばちゃんの自転車の後ろに乗せられて通いました。保育所の前に長い坂があります。おばちゃんが自転車を漕ぐのがたいへんそうなので、僕は少しおしりを浮かせ、おばちゃんの腰のあたりを押してあげました。今思えばそんなことをしても、何の力にもならないはずです。でもおばちゃんは、お前に腰を押してもらうととても楽だよ、助かるよと言ってくれました。それがうれしくて、毎日おばちゃんの腰を押してあげました」

 何という心やさしい孫さんでしょう。またそれに応えたおばちゃんは、自転車を漕ぐ以前に、常に孫さんや子どもさんに勿論旦那さんにも、やさしい言葉をかけ、いたわりの態度で接していたのでしょう。手をかけ育んできた家族だったのです。だから、おばちゃんが亡くなったという一大事に於いて、自然に感謝の言葉を述べることができた孫さんたちでした。

 昨今ごく内輪だけでお別れをすることを「家族葬」などと称しています。この度のおばちゃんもそのような葬儀だったら、孫さんの本音を聞くことができたでしょうか。何より多くの人がおばちゃんの人柄やその家族の家族らしさに触れることはできなかったでしょう。その意味では家族の何たるかを示してくれたこの度の葬儀こそ、本来の「家族葬」といえるものでした。  

 それでは又、3月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1337話】 「涅槃寂聴」 2025(令和7)年2月11日~20日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1337話です。

 「言っていることは聞こえていて、うなずくが、しゃべることはほとんどできない。目を開けるのも辛そうだった」。2021年11月9日に99歳で亡くなられた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの病床での様子。最期まで看取った秘書の瀬尾まなほさんが伝えたものです。

 死の1カ月ほど前に、一時退院して新聞連載の随筆を書き上げたのが最後の原稿だったと言います。生涯現役を貫き通したのです。それを裏付けるような一文を亡くなる半年前に残しています。「長すぎた一生だと思います。様々なことを人の何倍もしてきました。全てに今は悔いがありません。十分に生きた我が一生でした」。

 99歳ともなれば誰もが一線を退き、それなりの日々を送ることでしょう。日常生活を普通に営める人は多くはありません。寂聴さんは「長すぎた一生」と言うものの、その生涯が色褪せることなく、最期まで密度の濃い生き方でした。僧侶としてお釈迦さまのご生涯をなぞるような生き方を心がけていたのかもしれません。

 お釈迦さまは今から2500年ほど前の2月15日に80歳でお亡くなりなられました。この日を涅槃会(ねはんえ)と言います。お釈迦さまは説法の旅の途中、鍛冶屋のチュンダの供養の食事をいただき、腹痛に襲われるのです。そして沙羅双樹の林の中に身を横たえられました。衰弱がひどい中、弟子たちに最後の教えを説かれました。「私はなすべきことはすべて成し終えた。何ら憂うところはない。いたずらに悲しんではならない。世は皆無常である。私の死に逝く姿を黙って見つめなさい」

 たとえ釈迦と崇められようが、無常の風が吹けばその灯は消える、その理をしっかり見届けよと、身をもって諭されたのです。寂聴さんも「全てに今は悔いがありません」と言いながらも、「目を開けるのも辛い」という姿を晒しました。99歳まで健筆を揮われたものの、年老いていくことや病の前には如何ともしがたいという無常の姿を、これまた身をもって示されました。

 「死ぬる日は ひとりがよろし 陽だけ照れ」寂聴さんの句です。澄み渡り達観した気持ちが出ています。誰しも一人で死んで逝かなければなりません。しかしお釈迦さまは教えを残し、私たちを導いて下さっています。同じように寂聴さん亡きあとも、休まず太陽が昇るように、寂聴さんの生き方や作品は誰かを照らしてその人生に彩を添えています。お釈迦さまの教えに「涅槃寂静」があります。涅槃は炎が吹き消されたこと、寂静は一切の煩悩を捨て去ったことで、全く清々として心穏やかな境地を言います。瀬戸内寂聴さんなら「涅槃寂聴」と言い切って、青空ならぬ天上界説法を続けておられるのでしょうか。 
  
 ここでお知らせいたします。1月のカンボジアエコー募金は、737回×3円で2,211円でした。
 
 それでは又、2月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1336話】 「直心の交わり」 2025(令和7)年2月1日~10日

 元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1336話です。

 「一河(いちが)の流れ掬(く)むにさえ 深き恵(めぐみ)と知るものを 真心こもる熱き茶に 疲れを癒す有難さ」という御詠歌『報謝御和讃』が此君亭に流れました。茶室で聴く御詠歌は初めてです。御詠歌が茶室に染み入るのか、茶室が御詠歌を唱える人々を包み込むのか、得も言われぬ雰囲気を醸し出していました。

 此君亭とは、徳本寺開基家大條家ゆかりの茶室のことです。仙台伊達藩の重臣であった大條15代道直(みちなお)が、伊達家のお世継ぎ問題を解決した手柄により、天保3年(1832)に藩主より拝領した茶室です。当初仙台の大條屋敷にありましたが、昭和7年、大條家の拠点である山元町坂元の蓑首城(みのくびじょう)三ノ丸跡に移築されました。現在は町の指定文化財になっています。この茶室は一説には伊達政宗が豊臣秀吉より賜ったと言われるほどの貴重なものです。伊達藩の茶の湯文化を伝える唯一の遺構として歴史的評価も高いのです。

 そして大條家ではもうひとつ大きな功績を残しています。それは17代道徳(みちのり)の時、戊辰戦争に敗れた伊達藩は廃藩の窮地に立たされます。その時、道徳は戦後処理に力を発揮し、伊達藩を守ることができました。その功績により、元々伊達家の分かれである大條家姓を伊達に戻す命を受けます。改名し伊達宗亮(むねすけ)と名乗ります。その4代後の子孫に伊達みきおなる人物がいます。あのサンドウィッチマンです。そしてみきおさんの祖父母が新婚当時、この茶室に宿泊したという逸話もあるのです。

 しかし、茶室は老朽化に加えて、東日本大震災の被害により、存続の危機にさらされました。大震災からの復興が落ち着いた令和5年に、クラウドファンディング等で全国の方より支援を受けて、修復工事に着手。昨年11月修復完成し、一般公開となりました。そこで正月21日に修復後の杮落としや初釜の思いも込めて、徳本寺御詠歌講員と共に、茶室の歴史を学び慶祝のお唱えをしてお茶をいただく御詠歌茶会を催したのです。

 この地に茶室が移転されたことは、たまたまではなく、必然だったのかもしれません。その必然に応えるべく修復された茶室に、歴史の重みを感じました。御詠歌講員のお唱えは、いつにもまして心に響きました。まるで数百年の茶室の歴史が乗り移ったかのようでした。この茶室は文人墨客が集う文化サロンであったと伝わりますが、御詠歌が唱えられたことはなかったでしょう。新たな此君亭の姿の第一歩となりました。

 千利休は「直心(じきしん)の交わり」ということを強調しています。せめて茶席では世間的な利害得失や愛憎などの妄念を離れて、からっとした心の通い合いしましょうということです。茶室の御詠歌も上手く唱えようなどという雑念が消えていたのでしょう。だから「真心こもる熱き茶」は「歴史を示す有難さ」で、格別の味わいがありました。みなさまも是非、此君亭を訪ねて、直心の交わりをなさって下さい。
 
 それでは又、2月11日よりお耳にかかりましょう。



お祝いの御詠歌奉詠
 

【第1335話】 「昭和100年に想う」 2025(令和7)年1月21日~31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1335話です。

 今年2025年は昭和の年号で言い換えると「昭和100年」になります。私は昭和25年生まれで、西暦では1950年です。区切りのいい数字の年に生まれました。私にはもうひとつ区切りのいい年があります。それは昭和50年です。この年に大本山總持寺に上山して、僧侶としての修行の第一歩を踏み出したのです。昭和25年にこの世に生まれ、25年後に僧侶に生まれ、今年は僧侶として50年という大きな節目です。

 思えば50年前の3月、墨染めの法衣・手甲脚絆・草鞋履き・網代笠姿で、大本山總持寺の玄関に立ちました。案内を乞う木版を3打して、大きな声で次のように告げたのです。「御開山拝登並びに免掛搭(めんかた)(よろ)しう」つまり「本山を開かれた瑩山禅師様の元で修行致したく、禅堂への入門を許可願います」という内容です。掛搭とは禅堂にある鉤(かぎ)に荷物をかけることで、そこに滞在すること、つまり留まって修行することを言います。

 やがて古参和尚さんがやって来て「何しに来た」と詰問されます。「修行に参りました」「修行はここでなくてもできる、帰れ」。勿論、ここで引き下がる訳にはいきません。またしばらくして古参和尚さんが現れて「修行とは何だ」「御開山様に仕えることです」「そんなことでは修行にならん、帰れ」とにべもありません。そんなことが、1時間も2時間もあって、やっと玄関を上がることを許されました。最初に名前等を到着帳に書かなければなりません。長時間同じ姿勢をしていたために全身がこわばり、また緊張してなかなか字を書けなかったことを覚えています。

 評判の飲食店の行列に何時間も並ぶのとはわけが違います。これからどんな修行が待っているのか不安でしかないのに、長時間立たせる「庭詰め」には、訳があります。ほんとうに修行する気があるかどうか見極めているのです。この庭詰めに堪えられないような者は、これからの修行についていけないということです。事実、入門を許可されてからの修行は、それまでの生き方を一変させるものでした。朝起きてから夜寝るまで、食事も洗面も坐禅もお経も掃除もすべては仏道であることを嫌というほど叩き込まれました。

 あの時帰れと言われて素直に帰ってしまったのでは、今の私はありません。許可されるまではどんなことがあっても動くまいと覚悟はしました。今さら帰るわけにはいかない、自分で決心して本山の門を叩いたのだからという思いでした。自分に嘘をつきたくなかったのす。道元禅師は「発心正しからざれば万行虚しくほどこす」とお示しです。最初の一歩の踏み出しがその後を決定づけるということでしょう。おかげさまで50年前に踏み出した一歩の方向に、迷わず歩き続けて今日まで来ることができました。あの時の「帰れ」の一言は追い返す言葉ではなく、修行に向かう背中を押してくれた言葉でした。

 それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。 

【第1334話】 「年賀状じまい」 2025(令和7)年1月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1334話です。

 昨年のお正月、能登半島の人たちに、年賀状は届いたのでしょうか。地震発生が元旦の午後4時10分でしたので、配達はほぼ終わっていたかもしれません。しかし、その後の災害で混乱の中、年賀状を読めなかった人もいたことでしょう。また年賀状が瓦礫に埋もれたり、火災や津波で失われたかもしれません。そもそも年賀状どころではない、恐怖と不安が渦巻き、お正月そのものが吹き飛んでしまいました。

 炬燵に入って年賀状を1枚1枚眺めながら、縁のある人の近況を確認したり、ご無沙汰を思う時間は、お正月ならではです。しかしここ数年、「年賀状じまい」を宣言する方が増えています。「墓じまい」と共に「年賀状じまい」という言葉など、10年前にはなかったのではないでしょうか。「終い」は「お終い」ということで、まさに終わること、なくなることを意味します。「年賀状での挨拶を今年最後に終了させていただきます。これまでのご厚情に心より感謝申し上げます」という文章を読んだときは、一瞬ドキッとしました。せっかくのご縁が切れてしまうようで、正月早々寂しくなりました。まるで生前葬です。

 日本郵便の発表では、今年元旦に全国で配達した年賀郵便物は約4億9052万枚で、前年より34%も減りました。昨年秋に郵便料金が大幅に値上げされた影響が大きいようです。2011年には20億枚を超えていましたが、2022年には10億枚に減りました。そして3年後の今年はその半分以下となったのです。年始に関わらず、挨拶の手段が、メールやSNSなど多様化していることも一因なのでしょう。

 確かに年賀状を書こうが書くまいが、お正月はお正月です。でもお正月の風情ということで言えば、メールよりは年賀状です。遠く離れた人とも年賀状でのつながりは格別です。お互い今年もしっかり生きていこうという気持ちになります。効率を考えれば、いちいちはがきを書くのは面倒で無駄だというかもしれません。しかし効率だけの世界はぎすぎすしています。無駄はそのぎすぎすを滑らかにする潤滑油になり、心潤してくれます。落語評論家の広瀬和生は言いました。「無駄なところを落語から省いたらぜんぶなくなっちゃう」。無駄の塊が人の心を和ませ、笑う門に福をもたらすこともあるのです。

 何年か後に能登半島の人たちが、「あの年は年賀状どころではなかったが、今年はゆっくり年賀状を読めて、当たり前の有難さを感じるね」と思える日が来ることを願うばかりです。道元禅師は「梅早春を開く」と言いました。いつの日か能登に届く年賀状が、復興した春を開いて欲しいものです。それまでは「年賀状じまい」など考えずに、「災害じまい」に進しましょう。

 ここでお知らせいたします。昨年12月のカンボジアエコー募金は、534回×3円で1,602円でした。
 
 それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。 

【第1333話】 「身(巳)から出た錆」 2025(令和7)年1月1日~10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1333話です。

 あけましておめでとうございます。今年の干支の巳という字に似ているものに、已(すでに)と己(おのれ)という漢字があります。書き順の3画目が上にくっついているのが巳であり、中ほどで止めるのが已、下についているのが己です。それを覚えるのにこんな歌があります。「ミは上に、スデニ・ヤム・ノミ中ほどに、オノレ・ツチノト下につくなり」。已はヤムとかノミとも読み、己はツチノトとも読みます。紛らわしいことです。

 巳年に因んで蛇の話をします。「蛇七曲がり曲がりて我が身曲がりたりと思わず」なるほど、蛇は我が身が曲がっていても、曲がっているとは思いません。私たちも自分の短所や間違いに気づきにくいものです。よって反省もせずに、過ちを繰り返すことになります。

 お釈迦さまの前世物語「ジャータカ」には、次のような蛇の話があります。川に仕掛けられた網にたくさんの魚が入っていました。そこに蛇が素晴らしい獲物があるとばかりに入っていきました。ところが多勢に無勢で、たくさんの魚が1匹の蛇を攻め立てました。命からがら、やっとのことで蛇は岸辺に辿り着きました。

 するとそばに1匹の青ガエルがいたので、蛇は尋ねました。「青ガエル君、僕は水の中に入って魚を食べて生きているんだ。網の中の魚をたらふく食べようとしたら、魚は多勢をいいことに僕にかかってきて、傷だらけにしてしまった。こんなことがあっていいと思うかい」「蛇君、それはしょうがないよ。君が魚を食べるなら、魚だって君を食べてもいいはずだよ。普段は君が強いけど、魚たちが力を合わせたら君よりも強くなるんだ。いつも君が強いと思ったら大間違いだよ。誰でも力が強ければ、人のものを奪うことができる。力が弱くなれば、逆に奪われるんだ」。この言葉を聞いて、蛇は心に感じるものがありました。そして急に力が抜け弱々しくなりました。その姿を見た魚たちは、網から出て蛇の命を奪って、悠々と泳いでいきました。

 何やら人間の権力争いにも通じるような話です。弱肉強食の世界、あるいは諸行無常の世界をも暗示しています。いずれにしても、私たちは常に自分中心に物事を考えます。巳という字と己という字が似ているのは、己の中に蛇のような根性つまり自分が一番という思いがあるからでしょうか。已それは曲がった根性です。世の中には通用しません。「身(巳)から出た錆」となりませんよう心しましょう。蛇足ながら申し上げますが、もし錆が出ても、このテレホン法話を聴いていただければ、自分磨きになりますので、今年もよろしくお聴きください。

 それでは又、1月11日よりお耳にかかりましょう。